西淀川区にしよどがわくには、現在げんざい町名ちょうめいが17つあり、しま」のがつくものがおおいです。

なが年月ねんげつにわたる淀川よどがわ大和川やまとがわ武庫川むこがわなどのはこんできた土砂どしゃが、

河口かこう堆積たいせきしてをつくり、次第しだいいくつつものしまになっていきました。

これが古代こだい難波八十島なにわやそじまとよばれたものです。

 

新田開発しんでんかいはつ河川えなどによりわっていった

町名ちょうめい由来ゆらいを「西淀川区史にしよどがわくし」より紹介しょうかいしていきます。

                 ーー西淀川区にしよどがわく町名ちょうめい由来ゆらいーー

 

歌島(うたじま)

 旧村名きゅうそんめいによります。

 一説いっせつによれば「加島かしま」の古称こしょう転化てんかして「歌島うたじま」とよんだといます。

 

大野(おおの)

 播磨樋口村はりまひぐちむら (兵庫県ひょうごけん)の樋口伊兵衛ひぐちいへえ開発かいはつした土地とちで、当時とうじおおいなる野原のはら」であったことに由来ゆらいします。

 

大和田(おおわだ)

 「万葉集まんようしゅう」に「浜きよくうら懐かしみ神代より千船のとまる大和田おおわだうら 」と当地とうちまれてます。

 「和田わだ」はうみで「おおわだつみ」につうじ、ひろうみめんしたことに由来ゆらいしています。

 

柏里(かしわざと)

 神功皇后じんぐうこうごうがこのおとずれたとき土地とちひともちかしわにのせ,野咲のざきの花束はなたばをそえて歓迎かんげいあらわしたのにたいし、

 このを「鼻川」、しを「かしは」と命名めいめいしたことに由来ゆらいしています。

 

竹島(たけしま)

 もとの「加島かしま 」の字地に「竹町(竹ノ町)」があり、その竹町中心ちゅうしんであった当地とうちを、「竹島たけしま」と合成ごうせいして呼称こしょうされました。

 

千舟(ちぶね)

 「万葉集まんようしゅう」に「きよくうらかしみ神代より千船のとまる大和田の浦」からとられた地名ちめいです。

 

佃(つくだ)

 難波八十島なにわやそじまひとつに「田蓑島たみのばし」があり、貞観年間じょうがんねんかん (859~876ねん)に佃村つくだむらあらため、

 「田蓑庄」ともばれたことに由来ゆらいしています。

 また、慶長年間けいちょうねんかん(1596~1614ねん)につくだ大和田おおわだ漁民ぎょみん徳川家康とくがわいえやす鮮魚せんぎょやくつとめることになったことから

 「つくだ」としょうされたともいわれています。

 また、「つくだ」の名称めいしょうは、家康いえやす田蓑たみの漁業ぎょぎょう大事だいじだがひとはまずはたらけといったのにちなむとされています。

 (後段こうだんは、大阪春秋第おおさかしゅんじゅうだい90ごうより)

 

出来島(できじま)

 元禄元年げんろくがんねん(1688ねん)、摂津茨木在福井村倉橋彦坂四郎兵衛開拓かいたくした町人請負新田ちょうにんうけおいしんでん です。

 その完成かんせい記念きねんして「出来島新田できじましんでん」とづけられました。

 其能成功せるにみで出来島くとぞ。(後段こうだん西成郡史にしなりぐんし より)

 

中島(なかじま)

 元禄年間げんろくねんかん(1688~1703ねん)に京都きょうと丁子屋中島市兵衛開墾かいこんしたことにより「中島新田なかじましんでん」とばれたことによります。

 

西島(にしじま)

 元禄げんろく11ねん(1698ねん)に九条くじょうの池山新兵衛信賢が開墾かいこんした新田です。

 つくだ大和田おおわだ西にし位置いちするしまであることから「西島新田にしじましんでん」と命名めいめい されました。

 

福(ふく)

 正保元年しょうほうがんねん (1644ねん福新田ふくしんでんとして開墾かいこんされました。旧村名きゅうそんめいですが、地名ちめい由来ゆらい不詳ふしょうです。

 

野里(のざと)

 むかし、当とうちが「三野郷(みのさと)」としょうされた土地とちにあたるところから、郷名の「野郷(のざと)」

 とばれたことに由来ゆらいします。

 

花川(はなかわ)

 当地とうち村人むらびと神功皇后来訪じんぐうこうごうらいほうのとき、もちかしわせ,野咲のざきの花束はなたばえて献上けんじょうしたのにたいし、「鼻川

 と命名めいめいされた故事こじによります。「鼻川」は「花川」にあらためられました。

 

姫里(ひめさと)

 昭和初期しょうわしょきまで、姫島ひめじま野里のざと町域ちょういきで、一部いちぶ花川はなかわがありました。土地区画整理時とちくかくせいりじ町名ちょうめい一文字いちもじかさね「姫ノ里」とし、

 昭和しょうわ17ねん姫島三町会野里五町会合同ごうどうして、その町名ちょうめい継承けいしょうしました。

 

姫島(ひめじま)

 古代こだい文献ぶんけん地名ちめい媛島日女島比売島)の出典しゅってんもとめて、

 「ヒエシマ(稗島)」を「姫島」と当地とうち比定していることに由来ゆらいしています。

 「ひめを・ひえ」とり、ついには稗島くにれりとするものりなきにたり。(後段こうだん西成郡史にしなりぐんしより)

 

百島(ひゃくしま)

 元禄年間げんろくねんかん大和田村次郎右衛門開拓かいたくした土地とちで「百島新田ひゃくしましんでん」とづけられました。

 「百島ひゃくしま」のいわれは不詳ふしょうです。

 

御幣島(みてじま)

 難波八十島ひと御幣島みてじま旧地きゅうち比定ひていされた地名ちめい神功皇后じんぐうこう朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい からかえ ったとき にこの着船ちゃくせん し、

 住吉大神すみよしのおおかみまつったことからこのしょうこりました。

 「御幣みて」はかみたてまつもの総称そうしょうしています。

  

 

 

         ーー昭和しょうわ472がつ1日ついたち住居表示実施じゅうきょひょうじじっしによりえた町名ちょうめい由来ゆらいーー

 

酉島(とりしま)

 元禄げんろく15ねん(1702ねん)、大阪おおさか多羅尾七郎右衛門によって開墾かいこんされた「酉島三新田」によります。

 地名ちめいは、当地開発とうちかいはつ着手ちゃくしゅしたとし寛文九年かんぶんきゅうねん(1669ねん)の酉年とりどしであったためとするせつがあります。

 

外島(そとじま)

 地名ちめいは、明治めいじ41ねん大字名外島」にはじまります。

 布屋新田の内堤の外側たるために名付なづけられました。

 

塚本(つかもと)

 「和名抄」にしるされた旧郷名槻本郷」に由来ゆらいします。「槻本」はツキノモト、またはツカノモトとみます。

 

布屋(ぬのや)

 嘉永 かえい6ねん(1853ねん)に中之島なかのしまの布屋高瀬甚九郎が開拓かいたくした「布屋新田ぬのやしんでん」がその由来ゆらい であります。

 

南島(みなみじま)

酉島三新田ひとつ「南酉島新田」を「南島みなみじま」と短縮たんしゅく したことによります。

 

矢倉(やぐら)

 海岸かいがん寄洲よりすであった当地とうち安永 あんえい7ねん(1778ねん)に京都きょうと矢倉九右衛門が、酉島新田とりしましんでん中野清芳一緒いっしょ

 開拓かいたくした「矢倉新田やぐらしんでん」により命名めいめい されました。